占いは自分自身を見つめるための「内省装置」
西洋占星術を見てもらった日
占いを積極的に信じているわけではありませんが、嫌いでもありません。あるとき、西洋占星術で見てもらう機会がありました。生年月日と生まれた時間、場所を伝えて、ホロスコープを見てもらいます。円形の図の中に太陽や月、惑星の記号が並び、そのあいだをいくつもの線が結んでいます。
「何座ですか」と聞かれるときの星座は太陽星座と呼ばれ、社会に見せている自分、外向きの自分を表すそうです。私の場合は水瓶座で、「物事を少し上から俯瞰して見ている」タイプだと言われました。たしかに、みんなが同じ方向を向いていると、一緒に走るより先に「そもそも、なぜそちらへ向かうのだろう」と考えてしまうところがあります。
一方、内側の自分、プライベートな自分を表す月星座は魚座。「受け入れる」「自己犠牲」という意味を持つと説明されました。
「自己犠牲をするな」「自分軸を持て」
今回の鑑定でいちばん印象に残ったのは、個々の星の意味よりも、これから一年ほどのテーマとして言われた言葉でした。
「自分軸が問われている」「しんどいときには引き受けない」「自己犠牲をしない」
それを聞いたとき、正直「またこれか」と思いました。以前から、周囲に合わせすぎたり、頼まれると断れなかったり、相手が困っていると自分がなんとかしようとしたりするところがあるからです。誰かのために何かをすること自体は悪いことではありません。けれど行き過ぎると、自分がしんどいのに引き受けたり、相手の問題まで自分の問題として抱え込んだりしてしまいます。
心と身体を整えるためのリトリートに参加したときにも、似たようなことを考えていました。あのとき自分に設定していたテーマは「自分の内側の声に従う」でした。食べたいものを食べる。休みたいときは休む。やりたくないことは無理にやらない。文章にすれば当たり前のことなのに、わざわざテーマにする程度には、ふだんの自分は内側よりも外側を優先していたのだと思います。
それから時間が経ち、今度は西洋占星術というまったく違う角度から、また同じような言葉がやってきました。自分ではずいぶん変わったつもりでいても、同じ問いが形を変えて何度も現れるのが人生なのかもしれません。
占いは、本当に「当たっている」のか
ここまで書くと、占いがずいぶん当たっていたように読めるかもしれません。けれど逆に考えると、占いで使われる言葉はかなり抽象的でもあります。「人の感情に巻き込まれることがある」「自分を抑えてしまうことがある」と言われて、一度もそんな経験をしたことがない人のほうが少ないのではないでしょうか。
自分にとって意味のありそうな言葉だけを選んで、「当たっている」と感じている可能性は十分にあります。それでも、占いが本当に当たるかどうかは、それほど重要ではない気がしています。それよりも、占ってもらったあとに自分が何を考えたのか、そちらのほうに興味があるのです。
おみくじの言葉は、私のことを知らない
おみくじも同じだと思います。神社でたまたま引いた紙に「待ち人来たる」とか「焦るべからず」とか書いてある。それを読んで、「これは今やっていることかもしれない」「最近、結果を急ぎすぎていたかもしれない」などと考えます。
当然、そのおみくじが自分の状況を知っているわけではありません。「焦るべからず」という言葉も抽象的で、いくらでも解釈できます。それでも、その言葉を見た瞬間に何かを思い浮かべたのだとしたら、それはおみくじについての情報ではなく、自分自身についての情報なのだと思います。
星の配置が本当に人生を言い当てているのかはわかりません。それでも、星について語られた言葉を使って自分について考えたことは、確かな出来事です。
わからないから、知りたくなる
人間はずいぶん昔から、星を見たり、夢を読んだり、くじを引いたりして未来を知ろうとしてきました。不確実な未来に対して何らかの手がかりが欲しいという気持ちは、きっと昔から変わらないのだと思います。
ただ、占いが長いあいだ人間社会に残ってきた理由は、それだけではない気がしています。人間の知的な探究心は、世界の外側にも、自分自身の内側にも、同じように向けられてきました。なぜ自分はこういうことをするのか。なぜ同じようなことで、何度も悩んでしまうのか。自分は何を大切にしていて、これからどう生きたいのか。
自分のことなのに、自分というものは案外よくわからないものです。だから人間は、本を読んだり、旅に出たり、誰かと話したり、一人で考えたりして、さまざまな方法で自分自身を知ろうとしてきました。占いも、そうした方法のひとつだったのかもしれません。
占いとは、偶然や抽象的な言葉を通じて自分自身に問いかける、昔ながらの「内省装置」なのだと思います。自分自身のことがよくわからないから、もっと知りたくなる。人間は、そんなことをずっと繰り返してきたのでしょう。